log 2016
■2016/01/18 『エピゴノイの嘲笑』
 記録的な暖冬だという。雪の気配も無いまま年明けを迎えた。おめでとう。新年明けましておめでとう。大晦日には年の変わり目に合わせて少しばかり夜を歩いてもみたけど、寺社の境内にいたにもかかわらずいつ明けたのかすら僕らは気づかなかった。不意に周りで沸きあがった歓声に「どうやら明けたみたいだね」などと間の抜けた挨拶を交わしては微笑みあった。僕にどのくらいの煩悩が残っているのか、正直心もとないけど、せっかくだから聞いていこうと思っていた除夜の鐘は鳴らず、諦めて帰路をしばらく進んだ背後、遠鳴りのように鳴り響く音を聞いた。
 一年の計は、と、磨り減った言葉を使うつもりは無い。昨年12月の何日だかに祖父が死んだ時、受付やら住職の接待やら下らない事に延々と付き合わされたことを思えば、2015年のような年にはならなければいいとは思う。でもそんな行事の数々を思い返してみても、何ら心波立つことがないことを考えると、平穏で良い一年だったのかもしれないとも思う。結局、僕にとっては大した意味も無いようだ。いつからか、備忘録としてのみ機能している僕のこの言葉のように。
 年が明けて、新しい学期が始まって。目前に繰り広げられたりますは国語の授業、それも詩の授業でございます。「心が動いたことを書こう」という素晴らしい趣旨の元、添削され整理整頓されていく子供たちの言葉と魂に、Epigonenのエピゴーネンのえぴごうねんの追従者である僕は、ああ僕は、笑って見ていることが出来るようになりましたよ。ただただ笑って、薄い膜の向こうの風景を、僕は、笑って終わることに、何も感じなくなりました。おめでとうあけましておめでとう。笑って。笑われて。僕はそれでもいいと思っている。どうでもいいと。どんなものでも全てだと。全てが一切が自我だと。僕は肩をゆすって笑ってみようとする。除夜の鐘に見送られながら笑っていようとするんだ。
■2016/03/12 『春霞み』
 ああ、また春が来る。窓越しにひたすらに空を仰いで、時折目を伏せる。視界に映った、もの言いたげな手にはうっすらと積年が浮かび上がりつつあり、僕は二度、三度と頭を振っては、消えかかる冬の空気を求めてことさらに身を乗り出してみる。
 体中にある全部の怒りを集めて、何か出来ないかと模索してみたけれども、そもそも僕には怒りも悲しみもそれほど残っていないようだ。薄紅色した薄暮のような真綿がいつでも周囲を包んでいる。あれもこれも遠くて寝起きのような不如意さだ。春を迎える準備は何も出来ていない。春に向かうことさえ忘れて、日めくりをめくるべきか否かも決めかねて。まもなくいくつかのことに別れを告げなくてはならないのに、そこに向かう気力も湧いてこない。
 湯河原に行った。親戚の営む小さな洋食店では、母に良く似た面差しの伯母がにこやかに切り盛りしていて、おそらくもう会うこともないであろう人の働く姿は、結局名乗ることもなく店を出た僕の胸にどこか奇妙な安堵感をくれた。道は遠く身体は疲労して、でも縁のないその土地はなぜか懐かしく、僕はここでも語る言葉を持たない。奮発して入った高価な温泉宿は、結局どうということもなかった。覗きに行った霞む梅の森は、人の多さと威勢よく売られていく柑橘類ばかりが印象に残っている。僕たちは何処に行っても僕たちだ。それがなんだか、情けなくも嬉しかった。
■2016/04/04 『花弁の夢』
 誰かの溜息を聞いた様な気がする。辺りを見回しながら歩く。僕は泣きながら笑う。笑いながら泣く。高らかに、詳らかに、さんざしみたいに揺れながら。いつまでもこのままでいられるなんて思ってはいない。こんな風に静かに傷ついていられるだなんて思ってはいないんだよ。視界の端に消えていった花びらをいつまでも探していたこと。いつか忘れてしまえるのだろうか。ふわりと揺れて消えていってしまう花びらを留めようとしてどうにもできず立ち尽くしていたこと。いつか思い出せるだろうか。花びらの一片ですらも見出すことが出来ないまま、帰り道の中を声もなく泣きながら凍えながら独り歩いたこと。僕は泣きながら笑った。笑いながら泣いた。暗い暗い夢の中に沈み込んで、真冬の色もなく凍りついた万感の風景の中、ふと見上げた先に揺れるさんざしが僕の心を刺し貫いたこと。忘れ物を思い出したような、激しく優しい衝動を思い起こしたこと。あかい感傷を。
 四角四面の下らない見栄やあるはずも無い栄光の影に踊らされて、忘れ物をしてきたような、これは夜明け前の静寂だ。冬は過ぎた。目の前には散り行く花弁の刹那の夢。いつも通りの早春の詩。暗い暗い夢の中で僕はもう一度思い出す。正解や、ましてや不正解なんて、ふと視線を上げた先に映った見知らぬ親子の、楽しげな名前も知らない歌の前で掠れて消えて行く。暗い暗い夢の中で僕はゆっくりと手を開く。笑い泣き歌い忘れ思い出す。そこにひとひらの永遠を見出すために。
■2016/06/07 『雲雀のあと』
 夜が更けて、明けて暮れて次第次第に。白い部屋の中で。どこかから場違いな歌謡曲が聞こえてくる。月が巡って年が暮れて、鏡の中の顔はすっかり病み衰えて次第次第に。気が付けば、いつでも独りだ。笑い飛ばそうとしていたはずのあれやこれや一切合財が、もはやどこか遠鳴りめいた残響にも見えて、煽る酒はいつしか沢山になったし、僕の舌下はそれを昔と変わらず瑞々しく伝える。酔いが回って辺りも暗くなって次第次第に。白い部屋の中で何か音を立ててはそれが消えていくのを見ていた。
 僕の感傷を一言で表せば、それは愛なのかもしれないし、虚なのかもしれないし、ディアレクティケーに過ぎないのかもしれない。溢れるロマンチカと風あざみに乱れ、拭っても拭っても消えないカラフルな積年は愉快な同行者だ。月下に酔って楽しく踊れば素晴らしい友人たちも夜明けとともに消えてなくなってしまうけど、暗い部屋の中でソファに丸まって震えているだけの終わり方はどうにもうまくない。愛燦燦と。窓に降り注ぐ様を黙って見つめていれば、僕も少しは救われるだろうか。
 酷く明るい月夜に、来る本格的な夏の気配を感じて。僕はぼんやり浮かび上がる道をしばらく見つめ、やがてゆっくりとまた空を見る。次第次第に。失われた巡りと機会を悼んでいる。五月は終わり雲雀は飛び立った。季節に混ぜた僕の血少し。僕は今、独り静かにここにいる。それだけが確かだ。
■2016/10/09 『秋雨』
 道の端からゆっくりと稲穂の海は消えていく。酷い雨と、夏を思い出すかのような酷暑を気紛れに繰り返しながら、秋の実感も無く十月を迎えた。日々の合間に消えていくものについて、僕はまだ静かに見つめている。毎日の中で言葉は生まれ、生まれた先から零れ落ちていくようだ。路肩に原付を停め、金色に光る広大な田の波をぼんやりと見ている時、僕は空白になり、透明となる。そしてふと、ここ数年、幾つかの人から幾つかの言葉を贈られたり投げつけられたりしてきたけれど、そのどれもを思い出せないことに気付いた。その声も、顔も、名前も。それらは僕にとってどれほどの価値も無かったのかもしれない。もしくは価値なんて物は元より存在していなかったのかもしれない。生まれたものが死んでいくように、ただそれだけのことでしかないのだろう。僕の足元に転がる見知らぬ虫の死骸の様に。
 深い眠りから目覚めるとき、どこからか遠鳴りのような気配が伝わってきていて。静かな部屋の中でそっと目を開け、身を起こしてみるけれども、それが何処から齎された物なのか、やはり僕には皆目見当が付かない。そっと障子を開け放ってみれば、緩やかに降る雨がベランダ下のススキをそっと揺すり立てていて、その他には何も動くものも無い。しばらくそれを見ていたけれども、しばらく何かを思い出せそうだと期待したけれども、やはり部屋は静かで、薄暗く静止していて。僕はそっと布団に戻り、また夢を見ようとする。夢を見て、と考えて、見たい夢も無いことに気づく。ああ、僕は独りだ。真の意味で独りだ。何度でも繰り返しそれと知ろう。誰かに何かを伝えたような、なんだかとても懐かしいような、今すぐ何処にでも行けるような、そんな気もするけれども、ここは本当に静かで、僕は独りだ。そしてそれが誇らしい。
 僕はここにいる。夢は見ないだろう。ゆっくりと目を閉じ、再び眠りに落ちる。
■2016/11/22 『手と手と手と手』
 また春が来るさ、と、楽観視していたんだろう? 確かに冬は終わり、また春が来る。でもその春はきっと、僕や君が望んでやまなかったあの日々であるはずも無い。またいつでも笑えると思っていたんだろう? 確かに幾らでも笑えるだろうさ。でも鏡の中の顔は醜い凹凸だらけで、かつて僕や君が見惚れたあの輝かしさとは雲泥の差なんだ。いつでも終わることが出来ると目論んでいたんだろう? 確かに終わりはどんな風にでも選択できる。でもどのような始まりをも誰もが受け入れざるを得ないように、自分の納得の行く終わりかたなんて物を手中にするのは、クジに当たるよりも困難だっていうことに結局最後まで気付くこともなかったね。ましてやそのタイミングなんて何をか言わんや。移ろい散りゆく花の色を詠ったあの老婆の心情をなんて一つも慮る事もなく。

 手と手と手と手を繋ぎましょう。繋がった所から順番に確かめましょう。僕たちの存在を。そして気を失って透明になり果てましょう。空は青く世界にはまるで何もないようで、僕はその空白に向かって手を上げてみてから、いつの間にか握り締めていたものの喪失に気付いて右往左往する。幸福を誰かが保証してくれるんだって。例えこの世で幸せになれなくても、天国で救われるんだって。僕は幸せ者だ。僕は不幸だ。ああ僕は、僕は、僕は何でもない。野の百合の香る道を俯きながら歩いて、やがて迷い込んだ山中で、時期外れの花々に囲われながら夢を見ましょう。花に満ちた山の中、真綿のような幻覚に包み込まれて今度こそ眠りましょう。濡れた手の平はしっかりと握りこんで、手と手と手と手を失って。

 失われていく一方通行の、降り積もる先から消えて行く物の、散り掛かっては風に吹かれる物の、流れ込んでは澱んで行くだけの淵の様な暗がりの、手と手と手と手を、新しい春の中で見失うだろう。そんな予感に震えながら僕は、窓の外を吹き荒れる風に冬の到来を知った。悴んだ手では何も感じられないかもしれない。冷え切った手では何もつかめないかもしれない。変色していく手はやがて腐り落ちるのかもしれない。ああでも。鼻歌を歌って僕は流されていく。全てが僕の後ろにある。ドレミ。今日ある身なれば明日ある身とは覚えしか、押さえ切れない苦笑を皮肉交じりに吐き出して、流されていく。冬が来たようだ。空を掴むばかりの手を胸に抱いて、しばらくは震えながら過ごす。
■2016/12/20 『寒凪の辞』
 おざなりに過ごしてきた日々は、ふと気付いたときには既になおざりになってしまっていて、残念ながら今更それに気付いたところで僕にはもう取り繕う体面も無い。雪が視界の端を通り過ぎていく、不思議と暖かな日のこと。遣り残した仕事をせめて来年に持ち越すことの無いようにと、取り上げかけた携帯電話を、しかし僕はまた静かに置いた。時折知らない番号からなにかしらの意図が飛び込んで来るこの小さな機械を、多くの現代人がそうであるように僕もまた愛すことはできそうにもない。ところがこの無粋な蜘蛛の糸は、目を離そうとするような時に限って、充電の必要性を慎ましやかに主張してきたりもする。このような間柄を何と呼んだものか、かつての僕は知り尽くしていたようにも思う。思い出せはしないしその必要性も感じないけど。

 幾つかの物事に不具合が生じていた。僕の小さな原付バイクはしばらく前からキャブ周りのトラブルを抱えていたし、僕の小さな読書趣味は密やかにしかし着実に住まいを圧迫しつつあったし、洗面所の蛇口は明らかに締りが悪くなったし、教え子は手がかからな過ぎて実に張り合いが無いし、他にはええと、もう無いかもしれない。つまりは概ね満たされているということなのかもしれない。ただ季節が次々と飛び去っていくだけだ。何も不満は無い。何も沸き立つものも無い。ただ静かな生活がここにある。静かな生活が。

 冬の日にしては穏やかな優しい陽射しの中を、僕の不調な原付はゆっくりと進む。歳月が後ろにある。僕は時折振り返る。時折立ち止まる。エンジンを切ってそこに座り込む。視界は一面枯れ果てて、景色と季節の中に僕は独りだ。昼日中の冬の陽射しの中で何かが瞬く。瞬いては消えていくものをこそ、僕は愛するのだろう。やがてそんな気持ちですらも薄らいでいきながら愛し続けるのだろう。薄らぎ続けながら時折揺らぎ、いつか透明に成り果てたいと願って止まない。しかしながら一方で僕は知っている。生の終わりが如何に見苦しく、粗末なものなのか。そこに尊厳は無く、あるのは、尊厳と名誉やらがあると喚く悲しい生者達のぐるぐるのみなのだと。例えそれに、業という名前を当て嵌めてみた所で、それは何とも寂しく遠い言葉遊びの域を出ないのだ。この冬の日の中に瞬いては消える幻の、億分の一の価値も無い戯言なのだ。

 雪がちらつく。視界の隅で一年がまた終わる。遠く、山は眠る。歳月が後ろにある。なおざりにされた、それは名残だ。それは、誰にも名前を付けてもらえなかった、一つの小さな歌だ。
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