log 2017
■2017/01/06 『乾いた空と幸福』
 ゆらゆら消えていく。ちらほらと降る先からいなくなる。そこに寓意はあるのか。差し出した手の平をするりとすり抜けて、地面に何の痕も残さずに行ってしまった。僕の知らないどこかに。目を上げればそこにはいつもの光景が広がっている。冬になりきった空と大地は灰色に押し黙って、時々耳元をかすめていく風が体温を奪う。今年もまた雪の無い年越しだ。乾いた空気の匂いを嗅ぐ度に、なぜだろう。僕はどうしようもない気持ちになる。

 賑やかな年末年始だった。幾らかの来客と、分不相応な高価なお酒と。惜しみなく開けられて行くワインや日本酒に僕は容易く酔った。ここ数年、僕の世界は何処にも広がっていかないばかりか、やもすると狭まっているようにも感じられるけど、窮屈な世界で足掻く内に出会った小さな喜びは、その優しさで何だか僕を涙ぐませる。静かな毎日の中でゆっくりと老いながら、ゆらゆらと掻き消えて行きながら、僕はこれ以上なにを望むだろう。何も欲しくない。意味も意義も、寓意も。

 正月明け。テレビをぼんやりと見ていた。イスラエルの歴史学者が世界は全てフィクションだと喝破した本が世界中でベストセラーなんだそうだ。幸福とはなにか、どこにあるのかを教唆してくれる凄い本なのだそうだ。きっと多くの人がそうであるように、有り余る今更感に頭がくらくらした。虚構の中で生まれ、虚構の死を迎える僕たちの様はきっと呆れるほど幸福で美しい。幸福で腹がはち切れてしまう前に僕は席を立とう。美しさに目が潰れてしまう前に僕は逃げよう。「私の終わり」を「私達の終わり」にせずにはいられない迷惑な人々から遠ざかろう。そして静かに、密やかに、当然のこととして終わろう。染みも残さず消えたあの雪のように。
■2017/04/12 『青。さくらさくら』
 春も盛りを迎えようとしている。寒々しい空の下に梅は散り行き、散り代わりのように膨らみ弾けた桜を見ながら、ふと、終えてしまって久しい青い春を思い出す。思い出そうとして、それができないことに気付く。広すぎる空と小さすぎる自我と。春はやってきたのに。幕の向こうに消えた青を、僕はぼんやりと考える。

 例えば僕はもう、友情を歌えないだろう。夢や道や、もしかしたら愛ですらも。胸に残る空の青さが掠れ消えてしまうことだけを恐れながら、花の季節に杯を捧げ持ち、僕は祈る。消えて行ってしまったもの達に。かつて、青い日々の渦中というかつてにおいて、僕が恐れていたことは全て現実となり、色は朧に、花は霞と果てた。歌からはありとあらゆる慨嘆が逃げ去って行った。残り滓を集めて何をすればいいだろう。何が出来るというのだろう。こんな気持ちもやがて平たく均されてしまうことが分かりきった日々に。胸に残る青さが灰色に燃え尽きるのはいつのことだろう。怒りも悲しみも、ただ春の夜の夢の如く。

 君に贈る言葉もいつしか尽きてしまった。ごめん。ごめんなさい。大切にしていた気持ちにも触れなくなってしまった。ごめん。ごめんなさい。許して欲しいとは言わない。ただ今は手から飛び去って行ったあの春と、溢れて染め上がるようなさくらさくらに眼差しを注いでいようと思う。また花が散るように。また花が咲くように。静かに、限りなく。
■2017/04/24 『春の空の下では』
 散り果てた桜の下を行く。修理から帰った原付バイクは今日ものんびりと走る。昔よりもいささかにぎやかな声で。陽射しが鮮やかだ。風が緩やかだ。空は霞みながらも青く濡れていて、鳥達がありとあらゆることを歌っている。こんな日に思い出すのは、わけても思い出すのは、どうしてだろう、もういない人達のことだ。どれだけ願っても、もう会えない人達のことだ。散り果てた桜の下から覗き始めた新しい青が視界の端で揺れる。道の先に何があるのか、僕にはもう分かりきっていることだけが本当に、本当に残念だ。

 狂って行った人のこと。狂って行こうとしている人のこと。バイクを停めてコーヒーが冷めるまでの間、花の名残を見上げ続け ていると、自分にとってその二つはそれほど重要でもなければ曖昧でもなく、強いて言えば苦笑のようなものなのかもしれないと感じた。狂人から被る被害の幾つかをそれぞれ別の人間から受け取り、分類整理し、華々しくディスプレイしてみたところで、この春の空の下では何もかもが冗長だ。緑に覆われていく大地を踏んで、僕がいつも同じ気持ちになることと比べたら、どれも色褪せた写真のようなものだ。手垢に塗れた物ではなく手垢そのものだ。手の中のコーヒーを弄びながら、狂って去った人のことを思い出す。また思い出していることに戸惑う。会えない人たちのことを考え、空を見上げ、しばらく野の香りを嗅ぎ、コーヒーを飲み干して、僕はまた原付バイクのキックペダルを踏んだ。

 また一つ年を取った。それが無駄なことだとは思わないけど、意味のあることだとも思わない。世界は春を通り過ぎようとしている。花は散り去っていく。会えない人達のことを思い出す。ああそれにしてもなんて良い天気。道の果てはまだ少し遠い。春の霞の中にゆっくりとバイクを進める。
■2017/12/14 『冬の川辺』
 時間が過ぎていくことを許容できるようになったのはいつからだっただろう。誰かが死んだ記憶が薄れて思い出に変わった時か。自分の一番大切だった風景が跡形もなく崩されて人工物に埋め尽くされた時か。大人になってしまったと自覚した時か。去年か。今現在か。愛とかいう耳元で怒鳴り散らされる戯言を、諦観に似た感情で許せるようになった時か。一切は移ろいゆくということを受け止める覚悟ができた時か。僕が僕であるために立ち続けることをやめた時なのか。いつまでも続く耳鳴りのようなよしなしごとを、それでも抱きしめていけると気づいた時なのか。死についても生についてもその価値を見出せないことをやっと腑に落とせたあの時なのか。

 雪の降りしきる冬の川辺で、安いウィスキーになぜか氷を浮かべて、震えながら乾杯したあの日は、まるで奇跡のように美しい幻だね。君も僕も年を取り、大人になり、疎遠になった。僕の遠い幼馴染よ。君は元気でいるか。僕もすっかり冬に染まって今ここにいる。君は元気でいるのか。僕はここにいるよ。ここで、恥を忍んで生きている。今年も冬はここに来た。それは僕を満たし、世界を染める。なぜだろう。何度見ても、何年たっても冬の光景は綺麗だ。雪の中で僕は何度でも自失する。いくとせ過ぎても雪の中で僕は立ち止まり、凍えた心を静寂で満たす。そして何度も思い出す。しつこく思い出す。あの日を。あの年を。あの若さを。僕らの美しい夜を。

 いつかまたあの川辺でウィスキーを飲もう。冬の寒さに震えながらロックウィスキーを飲もう。雪が溶けたそれにゲラゲラ笑いながら。ああ僕たちはずいぶんと通り過ぎてしまったね。それは分かりきっていた未来だ。何もかもが明晰な、白黒の厳冬だ。いつかまた。いつか、僕たちがまた無邪気に笑いあえる時が来たならば、また。過ぎていく一切を許せる時が来たならば。過ぎていく一切を、諦められる時が来たならば、また。
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