log 2018
■2018/02/24 『雪道の空虚』
 雪の降る音がこんなにもはっきりと聞こえたことなんて一度や二度しかなかった。

 五十年に一度なんて言う大仰な肩書を引っ提げて特大の寒波がやってきた冬。雪が真横に降る中、無謀にも原付バイクで出てきてしまった僕は、通勤路の途中にある新幹線の高架下へ辛くも逃げ込んだ。路面はどこもかしこもアイスバーンだ。常備しているタイヤチェーンを震える手で装着し、腕時計を覗き込んで、始業時間までまだ余裕があることを確認してからやっと、一息ついて周囲を見回す余裕ができた。

 360度を田んぼに囲まれた農道の一角であるこの場所には、どこにも人の気配もなく、いつしか吹き止んでいた暴風の代わりに、しずしずといつまでも雪が降り続いていた。大きな玉のような、花の蕾のような雪だった。そんなにもはっきりとした雪なのに、手で受けてみると音もなく崩れた。故郷でこれほどまでに繊細なパウダースノーは見たことがなかったかもしれない。僕はバイクに腰掛け、しばらく空と、染まり続ける大地を見送った。

 今年、この場所からまた離れる。あやふやだった昨年とは違って、今年度こそ最後の年になる。僕の生まれ故郷での四年間は、意外な時間であったとともに、なんだか何かしらのご褒美のような、そんな緩やかな日々だった。ご褒美を貰えるようなことなんて何一つしていないのだけれども。目に映る一つ一つに一喜一憂しつつ、なんだか煙に巻かれ続けていたような時間を過ごしてきただけなんだけれども。なんだか僕は良い仕事をしたらしい。周りの人々が笑顔でそう言ってくれるからきっとそうなんだろう。どうにも実感は湧かないし、本当のところを言うと、そんなことは心が動かされることの少ない、どうでもいいことなのだけれども。僕にとって、今目の前で落下し続けてはすぐさま消えていく一つ一つの方が遥かに切実で、悲しく、嬉しく、空白なのだけれども。

 耳に響く囁き声に似たものが雪の降る音だと気づくのにはそれなりに時間がかかったと思う。過去に聞いた数回の記憶とともに、それは透明な感情を喚起した。僕は深呼吸し、遠くを、空を眺め、バイクにもう一度火を入れて、また凍てついた道を走りだした。チェーンがいい仕事をしている。さっきよりも大分マシになったけれども、過信することはやめよう。道はどこまでも白く、僕の視界もゆっくりと曇っていく。

 この果てに春があることを、僕はもう疑うことはしない。また春が僕の上にもやってきて、あらゆることを刷新することを僕はもう知っている。この白く覆われた美しい大地が、だれもいない静かな世界が、僕を救ってくれる一瞬の空白が、すぐにまた失われてしまうことを、僕は惜しまない。雪道にて、僕は慎重に、けれどもどうしても滑ってしまうことを楽しみながら、空白を超えていく。冬を超える。空虚はここにある。
■2018/03/11 『ショート・ソング』
 どこか遠くに行かなくては、という気がすっかり無くなってしまってから、本当はいつでもどこにでも行けるのだと、やっと解ったような気がする。行く必要すらないのだと。人生は旅ではないし、夢でもさよならでもない。ああ、確かに少しだけ汽車に似ているかもしれない。でも似ているだけだ。僕の今見ている空が、幼いころに見た空と似ているかもしれないという位の、ただそれだけの近似性だ。

 いつかお会いしましたねと言われて頷く曖昧に笑って

 結局、誰かに言われた言葉も、誰かに告げた言葉も、僕を大きくは揺らさなかった。おお歳月よ憧れよ、誰がここにいるというのか。傷ついている。癒されている。被害者ぶっている。加害者を気取っている。それらは全てただの匙加減だ。少なくとも、僕は職場で隣に座る人には興味が持てないし、時々振られる話題は呪いか趣味の悪い冗談に聞こえるし、いてもいなくても、というよりか、誰もいなくなって欲しいと思っている。僕はここにいて、既に遠いのだ。繰り返す潮騒の全てを覚えておくことはできない。言葉で記録したものは既に過去の消失点なのだろう。現在の実が目前にある。未来はすぐに過去になる。そしていなくなる。ありとあらゆる感情を、擦り切れていったそれら一過性のわななきを、僕は悼む。悼む先から薄れていく。

 抱えた頭がそれほど重くないなと気づく啓蟄

 時間は過ぎた。変わるためには十分だった。でも、日付けが僕に告げる物を、僕は覚えていよう。僕は忘れずにいよう。覚えていたい。忘れずにいたい。変わってしまっても、覚えていたい忘れたくない。そういえば昨日、郵便局で身元不明者のリストを久しぶりに目にした。身元が判明した人も幾人かいたらしく、顔写真のあったであろう場所には上からシールが貼られていて。良いことだと思いながらも、ふと、これでその人々の顔を見ることはもうないのだと思った途端に、もう思い出すこともないのだと気づいた瞬間に、酷い悲しみに襲われた。かなしみがどこからくるのかわからないよといつまでもねぼけていたいはる。字余りのような心を引きずって、歌えもせず、また春が来る。
■2018/03/30 『ドレミ』
 ドレミから始めて、空を突き抜け、やがて死に至る。途中通り過ぎたファは見なかったことにしよう。やがて積み重なる脈々とした倍音が、いずれ何もかもを滲ませてくれる。そうすれば気まぐれな無調性感や、吊り上げられたどっちつかずの秩序も、いずれは根に帰るだろう。

 明日、仙台を出る。都会での僕たちの4年間もやっと終わる。汚れた空気を胸いっぱいに吸い込んで、少しずつ透明になりつつある僕や彼女の時間に一区切りがつく。知らない土地でまた始める。ドレミ。天候は不安定で、予定は不順だ。でもそれでいい。でもそれがいい。声を限りに歌えたら、きっと僕たちは楽しいだろう。大声で歌えたら、きっと僕たちは自由なんだろう。僕たちはもう歌えるのだ。それをもう知っている。戯れに腕を広げて夕暮れの空を見上げよう。ドレミ。世界は春の予感に満ちはじめて、僕たちはそれをもう知っている。
■2018/04/12 『新しい場所』
 どこからか甘い匂いが運ばれてくる。視線の先で見知らぬ花々が揺れている。新居の庭先にどこか気まぐれな風に咲き誇っているその花の名前はムスカリと言って、麝香のムスクと同じ意味だと、何となく眺めたwebサイトが説明してくれた。それにどれほどの意味があるのかなんて知らない。ただこの可憐な花が持つ不似合いな花言葉のような気持ちとは程遠い感情で、僕はそれを見る。

 慌ただしい転居から2週間が過ぎようとしている。地縁の無い場所で、僕たちは平屋の貸家を借りた。戸建ての3LDKはそれなりに年季の入っているものではあったけれども、水回りや床はリフォームされているし、僕や妻(今年の1月27日にやむを得ず入籍した)の個別の部屋はあるし、それぞれの部屋は7畳もあるし、前庭に裏庭、加えてプレハブまでついてくるし、と、列挙したくてもできないほど僕たちに分不相応な物件だ。ここでまたしばらく生きる。もう何回目になるのか分からない引っ越しには、今回はなんだか本当にくたびれてしまったから、今度は5、6年はここにいたいねとぼんやり話している。

 どこからか甘い匂いが運ばれてくる。おもてにあらゆる緑が再生する。ふと思い立って庭に幾つかの花の種子を蒔いた。早ければ5月の終わりにはその姿を見せてくれるそうだ。花の種を求めることも、ましてやそれを植えてみようと思ったこともこれまでにはなかった。ささやかな花壇に日が差す。外に飛行機が飛ぶのが分かる。目を細めながら新しい場所を見つめるとき、僕の窓は開かれる。僕は微笑む。
■2018/04/30 『燦花』
 いつまでも散る花と春の下を言葉もなく歩いた。通り過ぎていく山々と花々に言葉にできず車を走らせた。春は過ぎる。花は燦々と落ちる。友はまた遠方へと去った。庭に撒き散らした種子がその芽を結ぼうとしているのを片目に、僕の上に五月がやってくる。陽射しは眩しく遠い。眩しくて一度目を閉じてしまえば、僕はもうここからいなくなる。世界も。

 新しい土地はいまだ土地勘もなく、地図を覗き込んでいる時間も多々ある。無数の境界線を指でなぞり、読み方も分からない数々の地名を飛び越えて、僕たちは走る。僕たちが走るとき、本当に飛び越えたものは何なのか。それは各々の胸の中に仕舞っておくべき事柄なんだろう。境界線を越えるとき、僕たちが抱えているものは何なのか。それはなんでもないつまらない物でありつつも、一切なんだろう。足元を呆然と見やる僕の視界を、何か大きなものの影が過り、追い抜いて行った。南を図るその翼について、僕はもう憧れを持たない。ただ遠く、高く、うつろであれと願う。遠く、高く、うつろであることができたなら、今、視界の隅で燦々と落ちていく花々の静けさについて、もう無理に言葉を探すこともしないで、僕は思うままに、軽やかに、嗚咽すら漏らすことができるだろう。

 友と飲もうとして購入した故郷の地酒は、その値段と店員の自信に溢れたセールストークとは裏腹に、酷い苦味と臭みに溢れた失笑物の出来だったけど、そんな、かつての苦味と臭みに溢れた日々を思い起こさせてくれるこの体験を僕は嬉しく思う。顔を見合わせ、酷い酒だねと言いあいながら春を終えることができることに、それが許されているということに、僕は言葉もない。

 新しい季節が来る。花は降り注ぎ、緑と光が満ちる。忘れられた気持ちをほんの少し取り戻す。眩しさに目を細めつつ、その気持ちをぎゅっと握りしめる。強く握りしめる。
■2018/05/07 『草々』
 笑うと目じりに小さな皴が目立つようになった君の傍らで、時に微笑み、時に戸惑いながら日々を見送る。休みの日に僕たちの小さな車を走らせれば、一切は過ぎていきます、と、君が冗談交じりに呟いて、春を終えようとしている車窓を眺める。知らない場所も、知らない歌もまだまだ世界にはたくさん存在していて、それらの全てを知りうることはないのだととうに知っていて。今更ながらなぜ命はあり、なぜ消えていくばかりを決定づけられているのかを不思議に思う。十年前に通った道は十年前とどこか違うようであり、全く同じようであり、ただの一度も見たことのない場所のようであった。

 あてもなく車を走らせる内、大きな波で失われた小学校を通りがかった。あまりにも凄まじい被害を出してすっかり有名になってしまったその場所、大川小学校をその日僕たちは初めて見た。周囲には多くの人々がそれぞれの顔をして歩き、覗き、時折沈痛な表情で頭を振り、そして多くの時間を黙って過ごしていた。五月の日差しと、柔らかな風がその場を包み、強制的に廃墟となった静かなその場所を、僕は不謹慎にも美しいと思った。

 とぼとぼと歩く僕たちの近く、たくさんの人を集めて恐らく何らかのガイドの人が、強い語気で学校という場所やそこで働く職員を悪し様に罵っていた。僕はなぜか少しだけ身につまされながら、そしてどこかで、どうでもよいとも思った。ただ、後から誰かを貶めることはしたくないと、まるで自分たちだけが被害者で悪いのは他の誰かや組織だと思い込んでしまうようなことはしたくないと、改めて感じる自分を見つけた。それほど問題があったのなら、事件が起きる前に自分が動けばよかったのだ。もし、知らなかったという言葉が許されるのなら、死んでいった子どもたちや職員たちも、きっとどうすれば良かったのかなんて知りはしなかったのだろう。僕たちはみんなが当事者だ。そういった視点を持てずに誰かを責め続ける以上、きっとまたこの苦痛に満ちた思い出は塗り重ねられる。

 煩わしさに顔をしかめる僕に、君がふと手を添え微笑んでくれた。積み重ねられていく僕たちの年月と失敗を、その美しい小さな皴に刻もう。僕の手足は萎えようとしている。陽射しに投げ出せば、五月の空がそこにある。変わっていく万象の中で、それを見つめる気持ちだけはまだ変わっていない。
■2018/05/12 『翳ろう空』
 こんなにも失われたものについて。僕たちが懐かしく思い出すとき。想い出は色褪せ、ひばりは飛び立つ。眩い五月の底に目を細めつつ、どうにかこうにか直すことのできた自転車を軽やかに走らせる。周囲はまだ見慣れない景色だ。延々と広がる晩春の水田に、永遠のような陽射しがある。限りあるものについて考えることはもうやめてしまってもいい。有限であるということならきっと、僕たちの目に映るもの手に触れるものすべてが有限だ。無限に見えるものは、ただ知覚の外にあるというだけのことなんだろう。だから僕は今、そこで歌い続けているひばりの姿をひたすらに美しく愛おしく思う。こんなにも失われたものについて。僕たちは懐かしく思い出す。どうしてかな、思い出すたびに遠ざかるような気がするのは。甘く饐えた季節は過ぎた。過ぎたのだろう。

 やがて夕暮れの気配が辺りに漂い始めた。自転車から降りて住宅地をぼんやりと帰る。途中、通り過ぎた家の前で老婆が二人、椅子に腰かけてなにやら仲睦まじそうにお話をしていた。「燕はいぎなりいねくなっがら」、「とぜんだあ」、「んだがら」。一斉に飛び立っていく燕を僕も見送ろう。僕たちが飛び立つのはどうやらもう少し先のことであるようだ。こんなにも失われたものについて。歩き歌い失い思い出す。夕空が翳った。少しだけそれを見上げまた自転車を押す。歩き歌い失い思い出す。ありとあらゆる喪失が僕たちの中にある。繰り返しの中で進む。
■2018/06/13 『みんな夢でありました』
 過ぎてみれば全てが夢のような、幻の余熱さえももう感じられない。陳腐だなと思う。でもそうであることは事実だなと思う。連絡の取れなくなった友よ、君は元気でいるか。今夜も楽しい酒を飲めているのか。馬鹿ばかりをした日々を馬鹿々々しく思い出すとき僕は馬鹿みたいに笑い馬鹿みたいに塞ぎこんだりもする。酒はきっとあの頃よりも上等になっているけれども、どうにも苦いのは仕方ないのかもしれないね。

 断絶を乗り越えていけると、確信もなく思い込んだまま大人になり、やがて老い始めた。断絶の向こうは遠ざかるばかりで、木漏れ日のような夏の始まりのような陽炎のような揺らめきの果てに、それは霞んでいくようで。誰のせいでも何のせいでもなく、ただ失われていくものを、僕は儚んでいるばかりだ。夕方を過ぎて夜の気配が満ちるころ、重い腰を上げてコップに注ぐ今夜の酒は、よく出来た氷とグラスの中で透明に揺れる。大人になり、独りになり、自由になり、なんにもなれなかった僕は、しかし何にもなりたくはなくて。強いて言えば消えてしまいのだけれども、この憂鬱と煩わしさを誤魔化す術も熟知してしまったから、口の端から漏れる汚らしい笑い声に自ら失望しつつ、綺麗なものを呷って消す。消された先から継ぎ足してはまた消す。

 みんな夢でありましたと、そう歌うことはしないだろう。僕はしないだろう。悼み儚み探す。霞み始めた目と萎え始めた手足と折れかけた心と張り付けた汚らしい笑みとどうにも消せないひりついた焦燥を抱えて悼み儚み探す。夢のように消えた、夢そのものであったはずの何かを。
■2018/06/15 『A Sky Full Of Stars』
 空のような、星で満ちた空のようなと、譫言の様な愛の言葉を重ねましょう。いつか最後の夜は更けて、明けることを待つことなく、僕たちもまた最期を迎える。数限りなく繰り返されてきた世界の事情と同じように、僕たちもまた声をあげることもできないままさめざめと泣くのだろう。

 あの空のような、星で満ちたあの空のようなと、甘く苦い言葉を重ねましょう。結局僕たちは楽園を見つけられなかったね。結局僕たちがどこから来たのかは分からなかったね。願いは消え去った。世界は苦くて、手先は冷たく、重なって震えながら、夜明けを待ち続けて。空に星は満ちて、僕は戯れに君を星空に例えては、見失う。

 僕は憎むよ。世界を。命を。存在を。自意識を。末那識を。声の限りに否定するよ。やけに気だるいこの体を阿頼耶の戸の外に放り投げて、この意識が消失するまで、何もかもを透明な星空の向こうに消し去ってしまえるまで、僕は憎み否定する。ああ、表の道をパレードが通り過ぎていく。仮装されたその波に乗り込んで僕たちも行こう。したり顔で、知らん顔で僕たちも行こう。撒き散らされていく花々。籠いっぱいの花々。ここには本来無いはずの花々。道々に降り注がれていく花々の行く先を、しかし僕達は見ないようにする。君はあの星空のような人だから。空に満ちたいっぱいの星空のような人だから。僕は手を伸ばし、虚しく空を切り、地に落ちたままゆっくりと腐り落ちていく。空のような、星で満ちた空のようなと、譫言の様な愛の言葉を重ねましょう。僕は憎むよ。愛するあなたをやがて必ず失うこの世界を。それを認識してやまないこの自意識と唯識を。僕は心から憎悪するのです。

 いつか、明るい空を一緒に見よう。肩を並べて、寒さに耐えて。言葉少なに。一つきりしかないマフラーを二人で巻いて。星空は満ちて、時は過ぎるけど、僕たちは手を固く握りしめたまま、震える体を寄せ合って、このくらくあかるい夜を超えて、いつか、二人で。花は注がれ、色とりどりに満ちて。でもその最後を見ることもなく。星の瞬きばかりを二人で握りこもうとしながら、手は虚空を切って、落ちる。
■2018/06/24 『踵を浮かせて』
 今思えば馬鹿みたいだね。夜が明けるのも待てずにぼんやりと窓の外を見つめていた。指先は何もとらえずいた。覚めるまでの夢だなんてことは知っていたはずだね。立ち上がることだっていつだってできたはずなのにね。

 真剣な顔で「たましいのおもさ」なんてことを話した午後。夕闇はいつもよりも濃かったね。「あさがくればなにもかもいいかもしれない」なんてことを素朴に信じた。川辺の道を手を繋いで歩いたね。ああそうだ、昨日の夜、僕たちは田舎の片隅で、静かな農道を蛍に包まれて言葉少なに歩いたんだ。聞こえる? 未来には、そういった奇跡のような光すらもありえたのだよ。あの頃には想像することもできなかったけれども。聞こえる?

 ふざけたステップを踏んで、両手を広げたり振り回したりもして。零れ落ちてしまったものはもう見失ってしまっていて。夜空は片端から埋もれていく。君の顔を探そうとして、僕はその頬が濡れていることに気づいた。重ねられた手にはそれほどの意味はなかったのかもしれない。夜空を全部。光を一つ二つ。朝はまだまだ遠いのだ。過去から未来までの中間地点が今だとして、僕はそれを到底受け入れることなんてできやしない。

 僕達はまた夢を見る。踵を浮かせて。夢みたいな夢を。蛍の光のような夢を。いつか見たような、そんな夢ばかりを願って、爪先立って、少し無理して笑おう。
■2018/06/28 『シソーラス』
 大丈夫。君が今いるその場所はただそれだけの場所でしかない。頭をあげて深呼吸をしてぐるりと周囲を見回せば、本当に小さな箱でしかない。世界は広く、茫漠としていて、自由だ。青く赤く白で黒で灰色で百色でありながら何色でもない。僕たちが何者でもないように。大丈夫。その場所でいつまでも傷ついている必要はないんだ。

 どうしようもないことを理解できない人が立候補をして街頭で奇声を上げているこの世界。横目で通り過ぎるつま先は、どこに行く当てもない。政治や権利や経済や自由や正義なんてものを声高に掲げてあたり構わず攻撃して回る人が目立つ世界。発信すべきことは押し流され、受け止めるべき人はもう跡形もない。瓦礫の街に立って虹を探す。その落ちる先を探す。根元でもいい。なにか確かなものを手に入れたい。もうそれがどんなものだって構わない。確かに始まって終わるのだと信じていたい。突然降りだしたにわか雨になす術もなく全身濡れて立ち尽くした時、僕たちはいつでも原初に立ち返ったね。微笑んでスキップを踏んで、家路を辿ったね。肩が震える。寒気なのか、それとももっと美しい何かなのか。僕たちは髪を掻き上げながらこらえきれず顔を見合わせて笑ったね。

 ああ、この場所はもうどこでもない。どこでもある場所だ。狭い箱庭を抜け出して、瓦礫の街へ。押し流され失われた地平へ。僕たちは悲しく、自由だ。美しく、粗陋だ。質素でしがなくて薄くて下賎で賎陋でちんけで下等で低くて粗末で小さくて鄙劣で貧寒で穢くて些細で貧賎で賎しくて下劣ではしたなくて微々たるものでちっちゃくて賤しくて卑俗でけちくさくてささやかで陋劣で卑しくて賎劣で卑劣で卑賎で繰り返しなのだ。だからなに? 僕たちは笑い飛ばしてここから出ていこう。その場所を笑い飛ばして後にしよう。世界は途方もない。大丈夫。一緒に行こう。大丈夫。

 どこに行っても似たようなものなのかもしれない。ここで踏ん張る人もいる。最後がみんな同じなら、似たようなものでしかないのなら。シソーラス。僕たちは僕たちの世界を歩いて行こう。
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