log 2020
■2020/01/07 『新しい空』
 とうとう何も把握できないでいるうちに10年代も終わってしまった。今年から20年代なんだそうだ。冗談みたいだけれども現実だ。僕もあと数年で40になってしまう。両親もすっかり高齢者の仲間入りだ。年に数回しか会えない人々は、もう数えることが出来るくらいしか顔を見ることもできないのだろう。伝えるべき言葉は無いか、少し考える。すべきことは無いか。出来ることは。考えたところで答えなんて出るわけもないことを、しかしながら僕はずいぶんと前にもう知ってしまっているのだ。

 失われ、損なわれ、手の中から滑り落ちていったものに、切実に会いたいと願うことを、心から求めることを、僕は虚しいとは思わない。やっとの思いで会えたその人が、しかし既に最後の眠りについてしまっていた時の気持ちを、僕は察して余りある。子どものような無邪気さで何も残らない場所に佇まなければならないその痛ましさを、僕は心から悼む。

 掠れて消え入りそうな声で「あいたかったの……」とその子は呟いた。震えるその後ろ姿を僕は見守ることすらできず、静かな空に、もうなに一つ残っていなそうな空に、ただ陽が差す冬の青空に、そっと手をやった。その子が絶え間なく撫でさするものは、そのものこそが、僕たちが失ってきたもの、全てだ。冬の空。幾度も幾度も見上げ果ててきた冬の空。気の遠くなるほど見上げても、そこはなるほど、いつも新しい空だ。何も分からないままで行こう。何も分からないまま、この透明な気持ちを胸に抱いて、行こう。数限りないものがそうしてきたように。数限りないものがそう消え去っていったように。
■2020/02/26 『いつかの星影』
 記録的な暖冬も、降雪量の少なさも、歴史的な伝染病の前ではすっかり霞んでしまった。春を待つ空は明るくて陽射しは暖かなのに、人々は集まることも許されず、全てのドラッグストアからはマスクが消えている。珍しいような、そうでもないような。初めて見る様な、いつかどこかで見たような。そんなことを考えながら店を後にする帰り道。何もかもをまるで体験してきてしまったような気になってしまっている自分を嫌悪する。老いたる感性。老いたる自覚。僕は強く嫌悪する。

 いつの間にか遠くに来てしまった、と、そんな安っぽい感慨を覚えることはしたくないんだ。見知った川辺に見知った花が咲く。見知った人の顔はもうないし、見知ったはずの自分はなんだか他人のような顔で、中年の造作に幼稚な精神だ。遠くに来たのではなく、ただ見失ってきただけなんだろう。見知った川辺に見知らぬ人々の姿を見る。見知った人々の影をそこに重ねようとして無様に失敗する。やがて日が暮れれば僕はまた独りになれるだろう。懐かしいその場所こそがきっと僕の故郷であり、優しい行く末なのだろう。

 もう間もなく終わろうとする冬の空を見上げる。辛うじて知る幾つかの星座を数える。あれはカシオペア。あれはオリオン。歴史的な暗さだと報道されていたベテルギウスは鈍く瞬いていた。オリオン座が崩れてしまうかも、とニュースは続いていた。気の遠くなるほどに僕の知ることは少ないのに、また一つ知り得たことが減ってしまう予感に気が遠くなる。あれはシリウス。あれはプロキオン。いつか誰かに教えてもらった星の名前を数える。ああ、星影は巡りいつか誰かを照らすだろう。いつかの誰かを周回線上に置き去りにしたままで。

 眠りに落ちるように、意識を希薄に、滑り落ちるように、間もなくどこかへと着地するかもしれない期待と歓喜に震えつつ、終わりを待ちながら、僕は老いつつある自分の影を踏んで家に帰った。
■2020/03/29 『上手く別れることができなくて』
 例えば10年という時がまた過ぎて。それはあんまり当たり前のような顔をしていて。10年前の、あの無邪気だった子どもたちの面影も既に見えなくて。見慣れた校舎を駆け抜けて行ってしまった制服たちの、その感傷にはまだ名前を付けられずにいる。若かったと、そんな言葉で片づけてしまうのは本当に悔しいのだけれど。あんまり多くのことがあり過ぎて、あんまり多くの気持ちがあり過ぎて、僕もまた多くの人がそうであったように、陳腐で軽薄なその言葉を使う。使っては苦笑しかない。

 弾むように、振り切るように。僕たちは走ったね。弾むように、振り切るように。君たちは走り去ったね。時間が過ぎる事なんて分かりきっていたのに、そのいちいちに僕たちは傷ついたね。「いつか」がいつかなんて知りたくもなかった。これから失われるものについて知り尽くしていながらどうにもできず、そのいちいちに僕たちはお別れをしなければならなかった。震える手を握ることもできず、送別の言葉も見つけられないままで。

 消えていったものよ、元気か。おもてには今年も春が来ました。花が咲き、陽射しは緩み、否応なく新しい生活は始まり。僕もまた一つ年を取ります。またお別れの時が来ました。失われていったものよ、僕はここにいる。弾むように、振り切るように。まだ歩いていこうと思っている。歩いていけるはずだと。ああ、そう心から願っているんだ。

 世界には恐ろしい病が蔓延していて、僕たちは別れすらも満足に告げられない。卒業すらも上手くすることが出来ない。肩を抱き合うことも、頬を寄せ合うこともできない。喜びも悲しみも十分には分かち合えない。大きく手を振ろう。大きく手を振って、遠くなり行く君を、日々を、かつてあったものを見送ろう。それらのものがこちらにふと気づいてくれたような気がしたら、笑おう。マスクの下で隠れてしまうことなんて気にせずに、顔中をくしゃくしゃにして、笑おう。
■2020/04/27 『終わっていく春の夜』
 知り得たことになんて何の意味があるのだろう。春が来て、花が咲いて。僕の周りは満たされる。未知なるもので。足元に咲く花の名前を僕は知らない。頭上を覆うあの雲の名前を僕は知らない。春風の名前も、先日購入したばかりの春物の上着がなんという名前の種類なのかさえも。知らないことに包み込まれて、僕は春の道をゆっくりと歩く。

 春のお祭りは軒並み中止になり、それでも僕らは去年と同じ夜桜を見に行き、ライトアップされていないそれが月明かりにか細く揺れるのを静かに見守り、静寂と暗闇の中で春を知り、帰宅しようとして乗り込んだ車の中で春が僕らの中でも終わりゆこうとしているのを知り、エンジンをかける刹那の車内でふと振り返って桜の静かに立つのを見、そこにはっきりと春が立ち尽くして僕らを見送っているのを感じた。花は間もなく来てしまった嵐に散り行き、僕は今年もその果てを知らない。

 知らない。僕は知らない。きっと知るすべもない。知り得たことに何の意味があるというのだろう。春の中で、誰もいない静かな夜の中で、桜は静かに揺れ、僕は冷え切った手を思わずそちらに伸ばそうとして止めた。僕らの中に春が散る。僕らの中に花が散る。振り返り振り返り帰る。冷え切った僕の手を同じく冷たい君の手がそっと掴む。終わっていく春の夜の中で僕もまた握り返す。
■2020/07/26 『梅雨明けを待たずに』
 記録的に長く続く梅雨の合間に、気まぐれのように覗いた青空に誘われて。素人仕事も甚だしく悪戦苦闘しながら先日なんとか修理を終えたばかりのバイクに跨って僕は久しぶりに走った。エンジンがかからなくなっていたYAMAHA YBR125とも気が付けばもう十年もの付き合いになった。十年前にはまさか自分がバイクを自力で修理できるようになるなんて微塵も思わなかった。それだけでも十年という時間は遠いと言ってしまって良いのだろう。どこか昨日のことのように思われるということは胸の内にそっと隠しておこう。

 四連休中だというのに人影は疎らで。世の中はまだまだ大いなる病の内にあって。空と、道と、歳月だけが僕の傍らを流れ去っていく。久方ぶりの陽光に照らされた緑の大地を眺め渡しつつ、時折空を仰ぐ。悪戦苦闘してどうにかこうにか直すことのできたバイクは嘘のように調子が良く、しずしずと誰もいない世界を滑っていく。広く長い農道に出て、その空と広大な田園の間に音もなく挟まれた時、僕は、何度も何度も経験してきたはずのそれに感極まり、思わず漏れる嗚咽を抑える術がない。

 僕は社会が嫌いだ。残念ながら抗うことのできるほどの力は持ち合わせていないから、一刻も早く消えて無くなりたいと常々思っている。僕は世界が好きだ。残念ながら言葉に出来るほどの才能は持ち合わせていないから、少しでも長く心に留まらせる術は無いかと探し続けている。この美しい空と、美しいと思うことのできる生命の不思議を胸に抱いて、僕はまた誰もいない道をゆっくりゆっくりと滑った。
■2020/09/12 『暮れなずみ』
 泥みたいにどろどろになりながら暮れなずむ道を歩いた。夏は中々去ろうとはしなかった。半ば自暴自棄みたいな陽射しと湿度に焼かれ、川の水面に浮かぶ水鳥は奇妙に美しい横っ腹を見せたまま物も言わずに流されていく。

 ここでしなければならないことが有ったような気がしていた。ここでしなければいけないことが何なのか分からなかった。ここでしなければいけない事なんて結局何もなかった。ここで成し遂げられたものは何一つなく、こんなつまらない場所で酷く消耗しつつ、なすすべもなく。僕は三十代最後の夏を失おうとしていた。

 ふと顔を上げれば日が沈むのもずいぶん早くなったものだ。永遠の様な灼熱の夏もやがて当たり前のような顔をして去るのだろう。昔小さな本で読んだような素晴らしい積乱雲が東の空に立ち上がっている。西の空は見る気にもなれない。頬を伝う汗を拭う気力もないまま僕は南に向かって歩いた。南を図る鳥もこんな気持ちの中でいたのかもしれないなんてことを冗談めかして考えて、その酷さに力なく笑った。

 暮れなずむ世界の中で輪郭まで曖昧になりながら、それでも例えば魂のありかなんてことを声高に叫べるか。不遜にも意思と名付けた思い込みで頭の中をいっぱいにしながらその実、古臭い枠組みの中から一歩も外に出ようとしない人々と一緒に生きて行けるか。泥臭い青臭さに首までつかりながら、しかしながら僕は明確に否やを唱えよう。暮れなずむ夏の終わりに一人ぼっちで泣けもせず重い足を引きずって歩きながら、それでも僕は拒絶する。

 夏は間もなく終わる。秋は間もなく来る。
■2020/11/25 『落ち葉掃き』
 かつて綺麗だった物を掃き集める。使い込まれた竹ぼうきは少しだけ大雑把に多くの葉を集めた。裏返りまた裏返りしながらひらひらと美しさの面影を覗かせて、葉は物も言わず、ただどこか香ばしい香りを漂わせる。時折砕け、時折あらぬ方向へと飛ぶ。

 音のない午後。誰もいない職場の駐車場を黙々と掃いた。空は薄い繭を透かし見たかのような静かな晩秋の日だった。典型的な秋空とは言えないぼんやりとした空の下で黙って箒を動かした。きっと僕もまた同じように曇った顔をしていたのだろうと思われた。時折思い出したようにそっと風が吹いた。それに運ばれてくるなにかの香りは、僕に何かを思い出させる前にまたそっと消えた。

 春に芽吹き、夏に青く茂り、秋に赤く染まって散る。冬には、冬にはどうだっただろう。落ち葉は掃いた先からまた駐車場に舞い降りて、灰色を暖かに色鮮やかに染めた。

 まもなく冬が来る。掃き集められ、軽やかに裏になり、表になる赤や黄の葉は、よく見るとどれも虫食いだらけだ。まもなく冬は来る。振り返っても駐車場のアスファルトの上には灰色の沈黙だけが落ちる。そんな季節が来る。まもなく冬に。

 晩秋の空も大地もいつまでも押し黙っていた。掃き集めたものを一つにまとめて袋に入れて。僕はゆっくりと、静かに、そして確かに口を閉じた。
戻る