log 2023
■2023/07/20 『虹を探す』
 音もなく晴れ上がった夏の朝空を呆然と見ていた。昨夜から続いていた凄まじい雨は突然に余韻も無く止んだ。虹が出るかもしれない、と、そんなことをぼんやり考えていた。雨上がりの朝に虹を見たことなんて一度もないのに。

 虹の彼方に。もしそんなところに行けることがあったとして。そこには何があるだろう。誰がいるだろう。失われて来たものがあるのだろうか。失われたあなたはいるのだろうか。失われた気持ちと、記憶と、景色と、汀が。どこか僕が知らない外国では、死ぬことを虹の橋を渡ると表現するそうだ。だとするのならば、幾重にも積み重なるあの虹の下で重苦しく圧し潰されながら殺されていったあらゆるものは、蕾のまま花開くこともできず地面に腐り落ち薄汚く転がったまま死んだ名も無き病弱な花々は、あの脆弱な光学現象を越えて、どこかにあるといういじらしく美しい場所へと行けたのだろうか。きっと行けたのだ。きっとそうに違いない。そうでなければ、ああ、そうでなければ。

 雨上がりの夏の朝空を呆然と見ていた。頭を巡らせ、嗚咽をこらえながらしばらく探してみたけれど、結局最後まで虹はどこにも見つからなかった。
■2023/09/17 『あの最果てに』
 間もなく夏も終わるようです。まだまだ暑い日は続いていますが、朝晩のふとした風に秋の気配を感じられることが増えてきました。お元気ですか。私は元気です。

 今年の酷暑は少し体に応えました。そちらはいかがですか。私といえばあまりと言えばあまりの陽ざしにおののいて、外出もろくにしないままでした。あの大震災から12年も経って、やっと今年海開きを迎えることが出来た海水浴場が幾つかあったようです。テレビを通してその賑やかな風景を楽しみました。その一つはかつて、もう本当に随分と昔にあなたと訪れたことがある海岸です。もし私がまたそこを訪れることがあったとして、それはきっと厳冬の季節になるでしょう。人の気配のない、風だけが吹き去っていく季節の中になるでしょう。きっとそれはよく晴れた日です。空と海と松と風ばかりがある、液体で満たされたフラスコを日の光を通して見上げたような、そんな日の真昼間です。

 しかし今年は本当に暑い夏の毎日でした。いつ終わるのかと不安に感じられるようなこともありました。陽ざしがあまりに苛烈なので、所用のため灼けた路上を恐る恐る歩かなければならない時、ぼんやりと霞むような視界の中で、幾つか幻めいたものを見るような心地を覚えることもありました。ふわふわと揺れる蜃気楼めいた視界の中で、昔あなたと手を繋いで海まで歩いた時の光景を幻視しました。なぜでしょうか。あの日の事を思い出すとき、海そのものではなくその途上、浜辺までの道行きが特に思い出されます。小さな道を分け入って、林を抜けて。最果てのような海岸線を目指して。あなたのほっそりとした手と私の手が繋がれたままブラブラと楽し気に揺れて。そんな過ぎた日の光景が見えるような気がしました。

 すべては気のせいかもしれません。すべては卑屈な願望なのかもしれません。海辺に整然と、しかし鬱蒼と並んでいたあの美しい針葉樹林の波は、端から津波に押し流されて今では見る影もなくなってしまいました。だからこれはただの未練に過ぎないのかもしれません。幻燈がいつ果てることなく回り続けるように、記憶もいつまでもめぐり続けるのでしょうか。私には分かりません。ただ一つだけ分かることがあります。私はこれからも折に触れてあの日のことを思い出すだろうということです。私の手をふわりと握り返してくれたあなたの涼やかな手と、微笑んだ優しい目元と、浜辺までの静かな小道を。ゆっくりと遠ざかっていく青い一日を。

 間もなく夏も終わります。お元気ですか。私は元気です。季節が進んで透明な風が吹く頃に、あなたと出かけたあの最果てにまた出かけます。あなたがそこにいてくれればいいのにと未練がましく願いながら。
■2023/12/19 『冬の星と絵空事』
 「冬の景色が それだけで 何か好きでさ」。かつてそう言って貴方は少し笑った。今年、冬がまた来る頃に貴方はいなくなってしまった。先日、外は今年初めての雪が降って、辺りは静まり返り、風は鋭さと静謐さを矛盾しながら内包し、道行く人の姿は次第に見えなくなって、僕は、今年購入したばかりのロングコートを着込んで、そんな景色の中でぼんやりと貴方のことと冬の空のことを考える。雪は止んだ。風は止まない。貴方はいない。日々は続く。

 「寒くなったら それだけで 旅に出ようよ そんな約束 いつだっけ したような してないような」。きっとそれは誰もがしたことのある、けれどもほとんど叶えられなかったような他愛ない口約束だ。冬の雪解けとともに、数限りなく忘れ去られ消えて行った感冒だ。熱に浮かされるように、醒めてみればゆめまぼろしとなる優しい思い付きだ。行く先のない僕たちの見た、いとけない夢物語。ついぞ物語られることのなかったおとぎばなし。世界の片隅のどうしようもなく暗く寒々しい部屋の中で、薄れ掠れていった寝物語だ。今、おもてには冬の風が吹いて。僕たちはその冷たさにすっかりおののいて、酷く怯えて全身を震わせたまま、いずれこの苛烈な刺々しい峻烈が過ぎ去るのを懇願するだけだ。やがて必ず雪は溶けるだろう。やがて必ず約束は潰えるだろう。すべては当たり前のような顔をして。貴方のことも忘れるだろうか。もしかしたらそんな冬の終わりも来るのだろうか。

 今日も日は落ちてまた夜が来た。ロングコートとマフラーに首まで埋もれて星座をなぞる。「冬の星に生まれたら」と願っていた貴方はこの冬の夜空のどこかにいるのだろうか。そんな絵空事を本気で信じていたわけじゃないはずだ。そんな絵空事を本気で信じているわけじゃない。ただ時々思うだけだ。そうあってくれれば良いと、そうあってくれれば本当に良いのにと、時々、そう思うだけだ。

- 2023年11月26日に亡くなったチバユウスケに捧げる。引用はTheBirthday「くそったれの世界」とRosso「シャロン」より。
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