log 2019
■2019/01/08 『ゆく年、くる年。』
 年が明けたぞ、と、大声で叫んでみたところで別に大した意味はないのだ。とはいえ、「年が明けたくらいで何をみんな浮かれるのか、なにがそんなにめでたいのか」と、思考停止したような人間にはなりたくない。何がめでたいのかくらい自分で考えろ。分からないなら子供のように素直に教えを請え。感受性の乏しさをこそ憂え。馬鹿者よ。と、著名な女性詩人の有名な文句を引用してみたところで、やはり年は明けたのだし、外は透明にどこまでも寒気が張り詰めていて、窓を開けようと思った自分を恨めしく思ったりもする。

 ありがたいことに今回の年末年始も賑やかに楽しく過ごさせてもらった。皮膚や頭髪、体形や体臭にまでも加齢を感じるようになってきた友人たちは、しかしいつものように笑って酒を飲み、どうでもいい話を繰り返しては満足そうに眠った。おめでとう。明けましておめでとう。今年も無事にこの時間をもたらしたものすべてに向けて、僕達は祝杯を挙げるのだ。素朴で、しかしそれはそれ以上ないくらいに正当な、懐かしく柔らかい祝いなのだ。言葉にならない祝辞を盃に満たした酒に載せてそっと飲み干すとき、僕達は確かにあらゆる意味を超える。

 楽しい時間は今年も終わった。皆それぞれの場所に帰る。また盃を捧げよう。無事にその時間を迎えられることを祈ろう。もし嬉しくもそんな願いが叶ったなら、笑顔で新年を祝おう。過ぎていくもの、言葉にできないもの、踏みにじられ汚されていくもの、そんなもののすべてを弔いながら。
■2019/01/24 『色の名前』
 色づいていたはずだ。確かに僕も。僕以外の誰も彼も。掠れて掻き消えそうになるたびに塗り直していたはずだ。傷つけられたまま見上げた夕焼けの赤さや、避けようもなかった別れの後の青空の色に。遺言めいた名文句を捻り出しつつ、笑いさざめきそぞろ歩いた春の道を、確かに染めていた花々と陽光の色彩に。

 君がはにかみながらそっと教えてくれた僕の色を、僕は、忘れてしまったみたいだ。

 窓の外は雪がちらついていて。空気には何も色がついていないみたいで。静かで。なんだかとても静かで。まるで誰もいないかのように。まるで何もないかのように。まるでこれで全て終わってしまったかのように。雪は後から後から降ってくる。しばらくそうやって呆然と立ち尽くしてから、冷え切っていることに気づいた。身体も、気持ちも、きっと歌や花でさえも。

 君がはにかみながらそっと教えてくれた僕の色を、僕は、忘れてしまった。

 震えながら君の色を思い出す。震えながら空の色を思い出す。震えながら花の色を思い出す。震えながら思い出そうとする。忙しく動かした視界の中の世界はなんだか凍りついてしまったかのようで、冷え切って固まった手と頑なな気持ちを、色の無い透明な冬の空気が割り裂こうとする。いっそ綺麗に割れてしまえたなら咲くことができるかもしれないのに。割り咲くことができた後でならいくら雪が降っても構わないのに。なかなかそう上手くはいかないね。

 君がはにかみながらそっと教えてくれた僕の色を、僕は、忘れてしまったみたいだ。同じ日に僕が見た君の色は、酷くぼんやりとしているけどなんとか思い出すことができた。色づいていたことにも、色褪せてしまったことにも、きっと大した理由なんてなかったんだろう。掠れ消え失せようとする残滓に無様に縋り付きながら、冬の寒さと言葉にできない何らかの感情に震える。その気持ちに名前を付けることはまだしたくない。
■2019/02/07 『誰もが君を忘れて』
 誰も彼もが君を忘れていくだろう。誰も彼もが君のことを口にしなくなるだろう。影は色褪せ、やがて空虚へと変わる。静かな部屋に真昼の光が影を落としていた。何もかもがあるこの場所には、きっと何一つ存在していないのだ。窓から世界の断片が見える。世界の全てがそこにある。世界はいつでもそこにあった。だがそれが、死を迎えようとしていた君にどれほどの意味があったというのだろう。だがそれが、独りよがりだった僕にどれほどの意味があったというのだろう。たった一つの心ですら抱えきることもできなかった僕らに。

 無邪気に「すべて」と口にしては笑い、くるくると回り、踊るようなステップではしゃぎ、歌うような身振りでふざけあったね。「すべて」、なにもかもが、生まれ失われまた生まれてくることに耐えきれず吹き出したりしながら、その不遜さを省みることもしないで、ありとあらゆる感情と感傷と景色と寝息を体中と心中に詰め込んで、馬鹿になったみたいに、いっそ何もかも無くなれとばかりに、眠るように、語り合うように、探り合うように、くすぐり合うように、僕らは生きたね。おどけた口調で語られる「すべて」には、本当にすべてがある様だった。まるで本当にすべてが存在を許されてでもいるようだった。空高く陽射しが突き抜けていく冬空に、汚らしい物をみんな綺麗にされていくかのようだった。やがて気が付くと、君はいない。見慣れた景色はない。あの焦燥はない。あの喜びはない。あの瞬きはない。ないんだ、なにも。寒々しい「すべて」だけを残して。呆然と座り込む僕の傍らに窓がある。ここから見る断片的な世界はきっと「すべて」なんだろう。二月の空は綺麗で、まるですべてがあるようだ。まるですべてがないようだ。まるですべてなんてことは最初からどうでもよかっただなんてことに気づいてしまいそうだ。

 誰も彼もが君を忘れていく。静かな部屋を満たす光は少しばかり傾いだようだ。雪は間もなく降るだろう。あの清く美しい物にみんな埋もれてしまえば、きっとそんなことだって何か救われたような気持ちになるに違いない。きっとそうに違いないのに、ああ僕は、その後にくる春のことを考えてしまう。醜く泥にまみれて汚れ、だれにも顧みられることのないまま消えていく白いすべてよ。春の空の下できっとまた自失する僕は、誰も彼もに忘れられていく君を、薄汚れながら悼み続ける。
■2019/03/04 『Scattered Acid』
 そうしたいと思ったから、そこに立ち尽くしていたわけじゃなかった。ただ傘を持つことができなかっただけ。ただ濡れていることしかできなかっただけ。他にどうすべきなのかもわからなかっただけ。それだけでしかなかったから、彼女は冷たい雨の中に立ち尽くして小さく震えていた。それだけだった。

 国境線は封鎖され、草原は燃え上がった。敷かれた戒厳令と報道管制。約束はどこへ? 手紙は届かなくなった。東の空は燃え上がる。朝はまだ来ないのに。行き場のない住民は街の残骸の中で息を潜め、やがて息絶える。焼け焦げた写真。焼け焦げた人形。混沌と暴力がやがて空と世界を白々と染め上げる。そうすればなにもかもいいかもしれない。きっと何もかもよくなるのだ。そんな素朴な祈りも、高らかに打ち上げられた砲撃音に暴力の始まりをつきつけられて塗りつぶされる。雨が降ってくる。彼女は濡れて立ち尽くす。傘なんて持っていなかった。泣きじゃくる声ももう聞こえはしない。

 さようならとただいまを、その両方を、失う。高らかに響き渡るファンファーレ。偶像は傷つき、やがて倒れるだろう。しかしそれを待たず、色づいた水たまりの中で硬直していく体と、下がっていく体温が、それを抱きしめる腕と狂った哀惜の叫び声が世界を染める。手紙は届かない。あなたはどこへ。ここにはもう何もないのよ。積み上げられたタイヤと妄言と死が、まるで何か意味があるかのように虚しく胸をそらしているだけなのよ。燃え上がるすべてのイデオロギー。燃え尽きるすべてのドグマチズム。どんなに拙いドラマツルギーでも表現できそうな、そんなありふれた終わり。もしここにいたいとそう願うなら、僕たちは「彼」に別れを告げなければいけなかったのだろう。もしここからいなくなりたいと願うなら、僕たちは「彼」に別れを告げなくてはいけなかったのだろう。万有引力が私たちの引き合う孤独の強さであるのなら、あなたのいない私には、もうどんな力も残っていないのかもしれないね。

 報道管制は最後まで解除されることはなかった。それだけの、どうしようもない話。崩れ落ちた屋根の隙間から空を見ようとして、幾度も幾度も幾度も幾度も身をよじった。空を見たかったのに。ただそれだけだったのに。東の空は焼けて、朝は遠く、頭上は黒く塗りつぶされていて、ファンファーレが高らかと。約束はどこへ? 消えていく体温と目の中の光を、避けようもなく、雨が濡らしていた。これはただ、それだけの話だ。
■2019/04/03 『機影を追う』
 機影。霞む青空に白く消えていくのを見送って。西から吹く風が踵の下に続く道を凍らせている。春はまだ少しだけ遠いみたいだ。遠く、遠雷のように気配がある。追いかけて視線は巡る。でもやっぱり機影はもう見えない。

 ただ消えていくことだけが未来であるのならば、この空の青さはなんとしたことだろう。すべての小さな存在にも意味があるというのなら、あの空に白く見失われていく美しい影はなんて儚いのだろう。未来はいつも遠く近く、世の習いのままに、それを認識しきることもできないまま、僕もまた近い未来に微笑む。

 冷たい風の中を、ゆっくりと春は来る。庭に緑が現れる。そう、それは現れるのだ。数えることはもうやめてしまったけど、僕はそれを大きな驚きと、深い喜びを持って受け止める。やがて花も咲く。やがて日々も終わる。ふと春空を見上げると、そこに見失った機影を認めて、僕は眩さに目を細めた。
■2019/04/27 『惜春』
 四月の終わりとともに平成も終わるのだそうだ。きっと春もまた終わる。僕はまた年を取った。それで何がおきたのかは分からない。けれども、きっと僕の何かもまた終わってしまったのだろう。

 やっと咲いたと思った桜があっという間に散り果ててしまっても、世界は続く。僕はまた新しい職を得た。僕はまた自転車で仕事先に向かう。この地では田園の間を道がまっすぐ通る。人気のないその道をヒバリの声を聴きながら僕は延々と走る。春の世界は美しすぎて、僕はなんだかとてもつまらない存在のようだ。春の世界は鮮やか過ぎて、僕はなんだかうっすらと霞んでいくようだ。この頼りない実感において、僕の中で終わっていったであろう物こそがきっと鈍く輝くだろう。その輝きをどうすればまた取り戻せるのかは分からないけど。その輝きを取り戻したいとはどうしてだか思えはしないのだけれども。

 一番大切なものは何ですか。僕は、新しい学校で新しい子供たちに向かってそんな問いをした。授業の中で処理されていくお約束のような質疑応答。僕にとって一番大切なものは何だったのだろう、僕にとって一番大切なものは何なのだろう。四月は間もなく終わる。平成も一緒に終わってしまうのだそうだ。新しい時代に、新しい時代を、新しい時代へ。取り残されたような気持ちでいるのかもしれない。いいや、違う。取り残されたような気持ちでいることにしたのだ。僕は明るい日差しの中で自転車を止め、終わっていく春の中で永遠のようなヒバリの声を聴きながら、僕の中で終わっていくものを悼んだ。
■2019/05/06 『水際の約』
 もう会えないという事を、きっと二人とも分かっていたのだろう。言葉少なに別れの言葉を交わし、それ以上できることもないまま、その日は来た。空はあんまりおあつらえ向きに五月の表情で笑っていて、そのどこにも迷いはなくて、かつてあったかもしれない軋轢や欺瞞や羨望や親愛ですらも鮮明な光はきれいさっぱり消してしまっている。

 船は思いの外軽やかに旅立つ人を飲み込んでいた。五月の川は清らかで、緩やかで、遥かだった。かつてどれほどの人がここから旅立って行ったのか、勿論僕たちは知らないのだ。旅立って行った人たちのうち、幾人が帰ったのかという事も。きっともう会うこともないまま、お互いはそれぞれの場所で果てるであろうという事を、僕達は二人とも分かっていた。それなのに、君が船に乗り込もうとするその寸前にどちらからともなくかわした約束を、僕は生涯忘れることはしないだろう。

 間もなく船は出る。長い長いこの川の向こうに何があるのか、僕は本当には知らない。君は水上の人となり遠ざかる。鳥は鳴き、飛び立つ。空は青く白雲は遠くたなびいている。この雲はきっと遥か君の行く先にも続いている。遠くなり行く君が、ふとこちらを振り返り手を振った。大きく、何度も何度も。その姿も霞んで消えていく。空の青さと川の青さが、夢物語のようにゆったりと重なり合うあのあわいの果てに、君は行くのだ。
■2019/05/21 『花の記憶』
 いつまでも同じではいられない。そんな分かりきったことが幾度も胸を圧し潰す。夢のような幼く燃え上がる時間は終わって、僕達は「いつもどおり」を失う。視界の隅で、まるで美しい戯れのような風情でくるくると回りながら落ちていく花ぐるまを、祈るような気持ちで受け止めようとした。受け止めようとした手をすり抜けて花は落ちていき、僕達はその行方を終に見ることはなかった。

 −それはやっぱり花の咲いた午後でした。いいえ、花はいつでも咲いていたのでしょう。いつでも咲いていたはずなのに、どうしてでしょうか。私はその時になって初めてその花を目にしたのでした。その時になって初めて花に手を伸ばしたのでした。その時になって初めて花が散りゆくことがこんなにも寂しく、悲しく、どこか柔らかで、かけがえのないことであることを知ったのでした。

 美しさが儚さと同義であるのなら、そんなものはいらなかったんだ。醜く卑屈で諦めの悪い木偶でいたかった。目も鼻も口も閉じて何も分からないまま、いつまでも同じ場所でぼんやり微睡んでいたかった。こんな気持ちはきっと口にしてはいけないのだろう。口に出して誰かに聞かせてしまってはいけない物なのだろう。誰かの目の前に差し出されてしまうとそれは、即座に色を失い、踏みつけられ、口汚くののしられ、嘲笑され、塵芥に埋もれて姿かたちも見えなくなってしまうものなのだろう。花の散った後の桜を顧みるものが殆どいないように。道の端で汚れて消えた雪の名残を誰も気にしないように。だから僕たちは、デクノボーと呼ばれながらいつも静かに笑っているような人になりたかったのに。願いはただそれだけだったのに。

 −子供のように笑っていました。子供のように手を伸ばせばすぐに触れることが出来ました。子どものように無邪気な夢を見ました。子どものように無力でした。こどものように、いいえ、きっと私たちはこどもそのものだったのでしょう。

 別れを、自分で選ぶことができるようになるまでに、僕達は幾度も別れを経験してきたね。避けられない別れだった。引き裂かれるような別れだった。どうしてだろう。不思議で仕方ない。別れは自分で選択できるようになった途端になんだかとても味気ないものになってしまったね。粛々と、淡々と別れは行われ、それは面倒で儀礼的な物になり、比例して記憶からは薄れていくものになってしまった。ねえ、上手くいかないね。なにもかも上手くはいかないものだね。いつまでも同じ僕達ではいられないんだ。いつまでも同じ僕達ではいられなかった。花は咲いて散った。落ちて消えた。その行く先を、どうして僕たちは知ることが出来なかったんだろう。どうしてなんだろう。僕たちはどうして消え失せていく花々をいつも見失ってしまうのだろう。

 −あなたは花に顔を寄せ、ひとたびゆっくりとその香りを嗅ぎました。そしてこちらをふと振り返ると優しい笑みを浮かべ、静かに手をあげて別れを告げたのです。それはまったく晴れた日で、それはまったくお別れ日和であるのでした。私は言葉にならない言葉を出すことすらできないまま、ただひたすらその一瞬が永遠に続きますように、なんて、子供じみた願いに胸が潰されそうになりながら、あなたと、あなたを祝福する花々と春の日差しをいつまでも見つめました。

 いつかの日。あなたが、失われていくものを初めて知って子どものように泣いた時、きっとそれがあなたの最後の子どもの時間であることを僕は知らないふりして。これまでと今、そしてこれからあなたに降り注ぐ花の数々が、あなたを包む花弁のすべてが、優しく色づいてあなたと共にあることを祈った。そしてこの馥郁たる花の記憶のすべてが僕から失われないことをまた祈った。今でも祈り続けている。
■2019/05/31 『微熱』
 いつでも日に当たるところに置いておいたのは、それが本当に大切で、いつでも、どんな時にでも見返したくなると思っていたからだ。記憶は鮮明で、重要で、切実で。退色することなんて思いつきもしなかった。ああそれは無邪気な幻想だったんだろう。

 色褪せた写真を更に切り出しておんぼろな拡大コピーにかけたかのように。思い出すことがそんな風に下手になっていくだなんて知らなかったんだ。焼け爛れてボロボロになっていくその姿に嫌悪感を覚える時が来るだなんて。熱に浮かされたまま終われるだなんて思ってはいなかったけど、だらだらとしつこく続く微熱に体を侵されて、何もかも億劫になってしまうだなんて想像したくもなかったんだ。小気味よい会話のリズム。優美な仕草。創造力に満ちた時間。好きになっては嫌いになり愛しては憎むようになった冗談みたいな冗長。増長。単調なその繰り返しの果てにありとあらゆるものがあると思っていたのに。終わりにはきっと何か静かで豊かで暖かくて優しくて眩い物があるんじゃないかと無邪気な夢を見ていたのに。

 季節は進む。世界は焼けていく。日に焼けていく手の甲に隠し切れないほどのシミを見つけてしばらく動揺した後で諦める。熱に浮かされたようだ。眩暈はいつの間にか収まった。収まったはずなのに視界はひどく揺れたままだ。陽射しが強い。長袖に帽子と手袋。日傘も必要だ。日の当たる場所を無防備に行くのはあまりに億劫だから。ふらつきながらアスファルトを歩くうち、僕はふと子供の時に自分が一番何を恐れていたのかを思い出して、呻く。
■2019/07/12 『冷たい日々が』
 なにもかもを手に入れることはできない。それどころか、何もかもに軽く触れることですらできようはずもない。いまさらそんなことに気がついて呆然としている中年の、夜の入り口。去年漬けた梅酒は既に円やかさを得て、斜めになった光の中で覆された宝石のような風情で揺蕩っている。それを口に含む僕のなんとも無様な年恰好だ。間もなく夜は来る。遠くに雨の気配がある。しのつくような重苦しさを得て、夜になっていく。きっと、多分、そうだ。何も知りえない僕は無知ゆえの心細さと傲岸さを持て余しつつそんな空言を繰り返す。奇妙に冷たい日々は明ける気配もなく、どこかの誰かがあの記録的な冷害の年にそっくりだなんてことをしたり顔で言うのを、どうにか笑わずに最後まで聞こうとして失敗する。

 やろうと決めたことはまだいくらか残っていて、その存在は僕の自意識を嬲りながらもどこかいつまでも優しい。時々辺りを見回せば損なわれたもののなんて多い事だろう。損なわれたものこそが本物のような顔をしてこちらに薄く微笑むような気がするのはどうしてだろう。その微笑はいつかどこかで見てきたもののような、見失ってきたもののような気がしてならないのはどうしたことだろう。やろうと決めたことはまだいくつか残っている。無理を繰り返すうちにそれは無茶になり、当然最後は無茶苦茶になるのだけれども、僕はやりたいと思っている。ああ、幼い頃からそれだけをずっと、切実に希い続けているのだ。
■2019/08/07 『安心な僕らは』
 旅に出て、帰る。いつでもそれだけのことに一喜一憂し、期待し疲弊し、家に帰りついて安心する。「旅慣れた人にコメントを募集します」と銘打たれたキャンペーンで、最も支持されたのが「やっぱり家が一番」だったことを微笑ましく思いながら、何らかの真理に触れてしまったような少しく寂しい心持ちだ。

 子供の頃に好きだった炭酸飲料が当時のラベルのまま復刻したのを、内心自分でも驚くほどうきうきしながら購入して飲んだ。

 酷暑の中、いかにも頼りない軽自動車で秋田へ、山形へ、新潟へ。家族の一員である僕らの優しい車はとうとう走行距離が10万キロを超えて、それでもまだまだ元気だ。酷暑が道を焼く。海を焼く。人を焼く。景色を焼く。季節を焼く。僕らの中にまだ残っている小さな何かも焼く。まだまだ元気な軽自動車がゆっくりと道を越えていく。焼かれつつも車内にはエアコンの優しい風が涼やかに吹いていて、僕は購入した懐かしいラベルの炭酸飲料を気の抜けた温さとともに飲み込んだ。

 旅に出て、帰った。思い切り泣いたり笑ったりはしなかったけど、喉を少しの後悔とともに通り抜けていく炭酸と、眩すぎて白々と燃えていた海岸線の美しさは、きっと忘れることはない。
■2019/08/11 『それらの正しさを』
 古い友人の僕に対する評価が決して高いとは言えないという事は、中学生の時分には薄々感じてはいた。二十歳になる頃には確信に変わり、それに感じる寂しさも同じ頃に失って、今となっては評価が云々という事ですらも殆ど忘れてしまっていた。先日その友人と会う機会があり、ちょっとした雑談の中で、本当に久しぶりにまた彼の中の僕の評価を再確認するにあたった。そしてそのことに自分でも驚くほど無感動でいた。自分の中の自尊心や友情とやらはもう微かにしか残っていないのではないのだろうかと、改めて寂しい心地がした。

 幾つかの事を思い出す。古い友人を、もしかしたら親友と呼べるのではないかと期待していた頃があったという事。大人になりたくない、いつまでも子どもでいたいと願ってはいたが、それは幼稚でいたかったという意味では決してなかったのだという事。そしてそのことについては終ぞ理解されなかったという事。そしてそのつまらない単純で安易な一点のみですらも理解されないことそのものが、ありとあらゆる証左となってしまい、結局沢山のことを諦める理由となってしまったこと。僕は幾つかの事を思い出す。思い出すことにもう痛みは感じない。少し寂しく、少し残念に思うだけだ。そしてそれは、幼き頃にお気に入りだった空き地や樹木が、ある日突然失われてしまったことを思い出すときの感情と、寸分の違いもないのだ。

 古い友人。結局親友と呼べる存在ではなくなってしまった彼らと、彼らにとってもそうであるはずの僕。そのどちらにも時間は過ぎていく。少年だった。青年だった。また夏が過ぎようとしている。間もなく僕たちは四十になる。こんな気持ちのまま年を重ねていく。また夏を失おうとしている。季節はもう眩く燃えることはないのだろう。ずっとずっと変わらずに子どもでいたかった。大人になり切れないまま僕たちは年老い、掠れ消えていこうとしている。どうもそんなものであるらしい。

 僕は信じない。正しいということも、大人であるということも、まっとうであるということも、仕方がないということも。「おとなのひとたち」が主張するそれらの正しさを、僕は絶対に信じない。ただここにある脆弱な個をのみ握りしめる。
■2019/08/24 『晩夏のお祭り』
 結局僕たちはどこに行っても異邦人だ。それが定期的に転居を繰り返しているためなのか、それとも単純に僕らの気質によるものなのかと問われれば、恐らくその両方であるとしか答えようがない。人づきあいがどうの、という問題の前に、そもそも僕らは致命的に他人への興味関心が薄いのだろう。

 ひたすらの煩わしさから逃れ続けるうちに、随分静かになったものだ。いつでも、どこでも、なにからも、僕達は決定的に他者だ。たとえ倦むことなく対話を続けても、人は敏感に何かを察するのか、ゆっくりと時間をかけて他人の顔になっていく。この静かな場所と季節の中で、僕達はきっとただの違和感に過ぎないのだろう。それでいいのだと思う。人々が僕達に違和感を覚えるのと同じように、僕達もちぐはぐなズレを感じてやまないのだから。現在所属しているらしい地域に愛着はおろか帰属意識も持てず、ただひたすらに他人の顔をしているしかないのだから。

 住んでいる地域に、今日明日と大きなお祭りがあるそうだ。テレビでそれを知り、しばらく眺めた後で二人とも首を傾げ、煩わされないためにどうすべきなのかを言葉少なに検討し、今日と言う日も終わる。どうにもこの場所は好きになれない。立地も人々の気質も。言っても詮無いことだから押し黙っていよう。夏はまた終わる。やがて少しは静かになっていくだろう。僕達はまだもう少しここで生きる。
■2019/08/30 『納棺遊戯』
 何かを見送ることと見届けることは、語感の近さに相違してあまりに乖離した言葉遊びだ。

 さようならおばあちゃん。さようならきせつ。さようならわたし。とてもしんじられないかもしれないけどわたしはそれらいっさいをこころからあいしていました。すぎていくいっさいをあいしておりました。こころよりおしたいしておりましたのです。

 遊びの一環としての死を所詮擬死であると声高に指摘したところで、葬列の群れは音もなく進み、葬列の鐘は音もなく鳴り、葬列の果ては白木の棺まで続き、殊更悲しい風情でなんともなれば嗚咽まで上げる大盤振る舞いで、人々は最期の火に焼かれる直前の趣味の悪い遊びにかかりきりとなり、対して蛋白質は凝固し、死蝋化し、永久死体の一形態となる。栄光の手! 切り落とされた罪人の存在証明を、そんな名誉で塗りつぶしてみたりもする。遊びはやがて終わる。夕暮れの果ての夕闇の黄昏の残照の夜の入りの新月の夜の闇夜の午前三時のしじまの中で楽しい遊戯は厳かに終わりを告げられる。人は語り継ぎ、いずれ愉快な村祭りもできるだろう。銅像は立ちやがて打倒される。すべての主義はやがてその本質を指摘され、誤魔化しと怠慢と欺瞞と言語遊戯である醜く肥満したその肢体を白日の下にさらされるだろう。すべては閉じられた棺の中で明らかになり、私たちはそれを観測できない。焼け落ちていく800度からの熱量の中で、1200度まで炙られながら徐に荼毘に付される私たちはそれを観測できない。最後の悪ふざけを見てもらえないのは本当に残念だ。未練が残ってしまいそうなほど残念だ。

 おともだちはかたはしからおにになっちゃったよ。ぼくはものかげにかくれました。おにになっちゃったらもうもどれないんだよ。ぼくはものかげでいきをころしました。おともだちはもうみんなおにになってしまったよ。いきといっしょにほかにもたくさんころしたきがします。ともだちのあしおととあらいいきがちかづいてきたね。ぼくはひっしにかくれながらでもどこかでだれかがぼくをみつけてくれないだろうかとねがっていました。きみもおにになってしまえばたのしいよ。だれかがぼくをみつけてくれないだろうかとこいねがいながらいつのまにか大人になってしまいました。

 遊戯は終わる。鬼はいなくなる。棺に納めるべきものは見失って久しい。誰かが摘んできてくれた花が申し訳程度に添えられる時、その花が故人の胸元で静かに揺れるのを見た時、僕達はやっと泣いて、この苦痛に満ちた人生とかいう名前の遊びがとうとう終わり、あなたに安息が訪れたことを知った。
■2019/09/30 『空白の月末』
 いつの間にかまた夜だな。眠りの中に何も分からないまま、薄甘く僕を殺してくれるものは今夜も現れないらしい。振り仰げば星もない空に、翳した手は透かし見えるわけもなくて。夜は夜のまま、僕は僕のまま、何かを探して不安にいてもたってもいられなかった気持ちも薄汚れたまま。

 もがいて何かを掴もうとした手が空を切った時、かけがえのない時間がもう通り過ぎたものであることに、はたと気づく。流れていく日々と日々のしじまのなかで、自分が何かを手に入れられるだなんて夢にも思わなかったのに、それは本当にそうに違いないのに、分不相応な幸せを胸一杯に与えられて酷く動揺していた。

 いつの間にかまた夏は終わっていたな。いつまでもいつまでも蒸し暑い夏だった。いつの間にかまた月も変わる。七月も八月も九月も過ぎる。八月のノスタルジアを見失ったまま、いずれまた夜の中だ。柔らかな眠りの中に甘やかに僕を殺してくれるものはないか。夜空に向かって伸ばした手はもう何の色にも染まらずにただ薄汚くしみていくだけだ。何に汚れたかなんてことを僕の口から説明させないでくれ。説明してしまうような大人になってしまう前に、誰か、誰か、と幼子のように呼ばわりながら、僕は醜く泣き崩れる。ひとしきり泣いた後でふと辺りを見回すと、泣き崩れることができる場所は至る所にあった。そのことに酷く落胆した後で空白となる。
■2019/10/15 『黒に白に、そして青の中に』
 デジタルナイズされたそれは、写真未満の画像データに過ぎない。想い出は色褪せず、いつまでも鮮やかに瑞々しく。それを見つめるぼんやりとした目だけが年老いていく。小さなディスプレイに映った過去をポケットに放り込んだ後で、ひとしきり貧乏ゆすりをして。ようやく、と言った体で僕は引き出しを漁り、一枚の色褪せた写真を見つけ出す。君がそこにいた。過去がそこにいた。色褪せた過去だ。色褪せた君だ。色褪せた恋だ。色褪せた写真を見ながら僕は君と街に行った時のことを思い出す。目が回るような雑踏の中での待ち合わせを。君が僕を見つけて、ふと笑顔になったことを。

 見上げればそこは呆れるような青空だ。酷い、という一言では片づけられない被害を出して、歴史的な台風は去った。一晩中続いた嵐の後の、人を馬鹿にしたようなあの青空を僕は生涯忘れないだろう。誰もが望みながら、決して信じない永遠が至る所にある。消えていく日々や、消えていく人々や、消えていく感性や、消えていく足跡や、消えていく君を、僕は忘れたくないと泣きじゃくりながら、それでもやはり永遠を信じられずに擦り消えていく。色褪せたものは思い出ではないのだろう。色褪せたものは君ではないのだろう。色褪せたものは恋ではないのだろう。色褪せたものは世界でも空でも言葉でも歌でも小鳥でもなく、言うのも憚れるつまらない答えでしかないのだろう。色褪せた写真を見ながら僕は思い出していた。雑踏の中で不安そうに俯いていた君が僕に気づいて、ふと笑顔になったことを。僕は忘れられずにいる。

 色褪せない情報端末を指先ではじいて、僕は出かける。バイクで、自転車で、徒歩で、夢の中で。どうしようもないほどの強さで歴史的な台風が破壊していったものの多さに眩暈を覚える。まるで夏の日の名残のようなそれは現実感に乏しく、ひたすら黒く、白く、そして青い。季節は進む。粛々と当然のように。僕達の未来は暴力的な仕組みで決められてしまうのかもしれない。でも、色褪せていく世界の中ではそんなことはどうでもいいことだ。ああ本当にどうでもいいことなんだよ。
■2019/12/12 『雨。雪。』
 雲一つない暖かな冬の日に、どこからか柔らかく雨が降ってきて。その細かな粒子がうっすらと辺りを濡らすと、色も匂いも失おうとしていた世界から、優しい思いがけなさが立ち上がった。

 雨は幻のように止む。静かな冬日が戻ってくる。しばらく眺めていたのに、手を広げて受け止めまでしたのに、僕は何物にも確証が持てず、何者にも終になれず、一つ息をついて、僕を待ってくれているだろう子供たちのいる教室に向かった。

 幸せが何かなんて結局分かりはしないのだ。まとわりつくあれやこれやの中に、それは慎ましい風情で咲く。通り過ぎる道の途中でふと花が香るように。時折それに気づいて微笑む。それだけで十分なのだ。秋は去り、冬がやってきた。空は高く、雲は複雑に折り重なり、世界から気配は薄れ、凍えながらも僕はここにいる。

 授業を終えて帰路に就こうとしたとき、ちらりちらりと雪の切片が視界に入った。相変わらず空には雲もない暖かな青さだ。降り過ぎた雪の欠片。その一つが肩に落ちる。雪はいつも僕の中の静かな記憶と、歯がゆい未練を思い起こす。それは東北に生まれ育った僕にとって故郷と呼ばれるような何かしらの悔悟だ。切片は見守るうちに消えた。冬は深まる。雪はやがて僕に降り注ぐだろう。降り積もるそれが僕にべったりと張り付いて溶けだしてしまう前に、僕の全てを濡らし切ってしまう前に、振り払うことのできる覚悟を、きっと僕は必要としている。
■2019/12/18 『物語を書くということ』
 物語が始まっては終わっていく。書き始めては終わることに何か意味があるのかなんて未だに分からないけれども、その繰り返しに心が軋むように感じ始めたのはいつだったか。転げ周り泣き叫び大笑いし死んでいき幸せになり何もかもを無くし。物語の中で繰り返され消費されていく無数の「君」と「僕」を、僕は心から愛し、いつしかその末期を悼むようになった。

 書こうと思えば幾らでも生み出せてしまう世界について、なんとも割り切れない居心地の悪さと、気後れの様な気持ちを抱くようになったのは、確か、二十歳を少し過ぎたころのように思う。最後の一行を書き上げて、しばらく眺めた後、溜め息をついて椅子から立ち上がる。ワープロ画面の中でまた一つ世界が終わってしまった。登場人物たちは幸せそうだったり、言葉を無くして立ち尽くしていたりする。本当におかしな話だと自分でも思うのだけれども、そこに僕の意図や希望は反映されてはいないのだ。そうあるべきところに物語は帰着する。いつでもそうであって、もしそこに何らかの思惑が混入してしまった場合、僕はどうしても最後まで書ききることが出来なかった。どうもそういうものであるらしかった。

 物語が始まっては終わっていく。もう10数年物語を書くことから離れてしまっている。しかしこの長い時間の内に、僕の中では幾つかの世界が生まれ、沈黙していった。書かれなかった物語は、きっと書かれた物語よりも不幸なんだろう。それはあらゆる意味でだ。僕が今日読了した誰かの物語の中で、泣きながら笑っていた主人公の透明な眼差しが、ふと心に浮かぶ。僕の中で消えていった「君」と「僕」の面影が、視界の隅に翻る。僕に出来ることは何だろう。できることがあり、したいという気持ちがあるならば、きっとやってみるべきなのだ。そうに違いない。
■2019/12/29 『また一年は終わっていく』
 こんなにも呆気なく、また一年は終わる。ありとあらゆることが有り、ありとあらゆることが起きなかった、いつも通りの一年だった。元号が変わり、税が上がり、来年には干支も一回りし、と、何かを変えるための言い訳は幾つもあった。実際に無くなっていくものが例年よりも多かったようにも思う。好きだった店が数店無くなった(きっと理由は様々だ)。祖母が死んだ(葬式には行かなかった)。友達に絶縁された(理由はよく分からない)。それら全てに意味を見つけることは、どうしてもできそうにない。

 それは毎年繰り返される平凡な事情なんだろう。一時心をざわつかせてはすぐに凪いでしまう小さな積み重ね。そういった積み重ねを繰り返していって、やがて僕は溺れ死ぬのだろう。どうしようもなく埋め立てられ続け、息も出来なくなりながら、周りを見回しても何も見えなくなった時、自分が何を思うのかはまだ分からない。できうれば静かであってほしいと今はそう願っている。

 こんなにも呆気なく、今年も終わるのだ。去年よりも少しだけ優しい冬の始まりにそっと安堵しては、今日のようなあえかな陽射しに、その先に瞬くものに、言葉にならない思いを一方的に祈りたくなる。跪いて頭を垂れてから、しかし、祈るべき言葉は何も見つからず、そもそも祈るべき対象も分からず、困惑しつつ頭を上げれば、そこは筆舌に尽くしがたいほど美しい世界だ。冬の日に照らされたなんでもない一日をきっと僕は忘れてしまうだろう。忘れてしまうのだという事、忘れてしまったのだという事の痛みだけがまだ残っている。この痛みを抱えたままきっと来年も過ごしていく。
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